盛岡市・つなぎの観光名所 スポット 20選
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宮野小提灯句碑
岩手県 盛岡
- 観光名所
宮野小提灯(みやのこちょうちん)は、戦時中も俳句の灯を絶やさず、 生涯を庶民の俳人として貫き通しました。 ※月待つや独り古城の松のもと
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プロ食
岩手県 盛岡
- 観光名所
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プラザおでって
岩手県 盛岡
- 観光名所
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岩洞湖家族旅行村
岩手県 盛岡
- 観光名所
日本一美しい人造湖といわれている岩洞湖の北側に、家族を中心としたグループが大自然の中で気軽に楽しめるようにと、家族旅行村がオープンしたのが昭和58年6月。旅行村内には「キャンプ場」「おまつり広場」「ちびっこ広場」「ピクニック広場」「遊歩道」「テニスコート」が整備されており、平成12年にはサニタリーハウスが完備したオートキャンプ場もオープンし人気を呼んでいる。また、毎年恒例の「岩洞湖まつり」は9月の中旬に開催され、地元の薮川そば・短角牛肉が堪能できる。
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石川啄木歌碑(玉山)
岩手県 盛岡
- 観光名所
「霧ふかき好摩の原の停車場の朝の虫こそすゞろなりけれ」(夜更森園地内)。「新しき明日の来るを信ずといふ自分の言葉に嘘はなけれど」(愛宕神社境内内)。「やわらかに柳あおめる北上の岸邊目に見ゆ泣けととごくに」(渋民公園内)。
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上の橋擬宝珠
岩手県 盛岡
- 観光名所
上の橋は、慶長14年(1609)に第27代藩主南部利直(なんぶとしなお)が、 盛岡城築城時に中津川に架けました。擬宝珠(ぎぼうしゅ・ぎぼし)を取り付けたのは、 1336年(延元元年)後村上天皇より恩賞として京都鴨川橋の擬宝珠の使用が許された故事によると伝えられています。慶長14年のものが8個、慶長16年のものが10個、合計18個が取り付けられています。この擬宝珠は、1945年(昭和20)に軍の金属供出になるところを、実業家でかつ郷土史に造詣の深かった太田孝太郎(1881〜1967)の尽力で、急きょ国の重要美術品に認定され、危うく難を免れました。その擬宝珠も、 400年近く経過して腐食が進み、小さな穴にコムクドリが巣をつくり、文化財保護か野鳥保護かとマスコミをにぎわしたこともあります。橋の擬宝珠で記念銘があり、制作年代も古く、残存個数が多いという点で、盛岡市の青銅擬宝珠は国内でもまれな存在です。現在の橋自体は、何回かの流失を繰り返し、昭和になってかけかえられたものです。
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原敬墓所
岩手県 盛岡
- 観光名所
寛文13年(1673)の創建。明治17年の大火で焼失してしまいますが、平民宰相・原敬の寄進建立で現在に至ります。 大慈寺の境内には、大正11年東京駅で一青年の凶刃に倒れた原敬が、その遺言により眠っています。原敬(はらたかし 通称はらけい)は、1856(安政3)年に盛岡市本宮の南部藩士族の家に次男として生まれ、幼名を健二郎といいました。原の出は士族ですが、次男ということもあって平民となっていました。藩校作人館(仁王小学校の前身)で学び上京、新聞記者などを経て1918(大正7)年に首相となり、歴代の士族出身の首相に代わる、日本初の平民宰相として国民に歓迎されました。日本における政党政治の第一歩を記した人物としても知られています。原の合理主義による開明性は皇太子(当時の)の欧州視察旅行の推進実現に代表されます。しかし原はその開明性のために極右勢力に狙われ、1921年11月、19歳の国鉄職員に東京駅で暗殺されました。原は趣味として俳句をたしなみ、その時々の心境を託したすぐれた作品が数多く残されています。このほか新聞社につとめたときには、原敬の署名で論説に筆をとる一方、多くの著書を残しました。満19歳から65歳に暗殺された当日までの記録「原敬日記」は学術上の貴重な文献となっています。また、大慈寺には原敬の別荘にあったものを、没後にあさ婦人から元のまま寄贈された腰越荘があります。原敬が忙しい生活の折にくつろぎをとった懐かしい建物でもあり、室内には西園寺公望の筆による腰越荘の額が今もかけられています。
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貞女おかんの墓
岩手県 盛岡
- 観光名所
貞女おかんの墓で知られる大泉寺(だいせんじ)は、江戸時代の文政年間に再建された独特の宝形式反り屋根の本堂になっています。宝形造りの屋根は、宝珠と軒の反りの線が流れる美しさが特徴です。反り返る軒先には力強さがぐんあふれ、みごとな空間構成をつくり出しています。昭和54年盛岡市の保存建築物に指定されました。 ※貞女おかんの伝説:慶長年間の不来方城(こずかたじょう)築城のころのことです。工事人夫の三平には、おかんという美しい妻がいました。棟梁の高瀬軍太は、かねてからおかんに横恋慕していて、三平を亡き者にしようとたくらんでいました。それを知ったおかんは悩み、「夫の三平を、明日の朝早く馬で観音参りに出すので、鉄砲で撃ち殺してほしい」と高瀬に頼みました。あくる日、高瀬は三平を手はず通り撃ちました。しかし、そこに倒れていたのは三平に変装したおかんの変わり果てた姿でした。罪の深さを知った高瀬は、大泉寺におかんを葬り、三平とともに僧侶となって供養しました。
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米内光政像
岩手県 盛岡
- 観光名所
堀江赳作の驚くほど大きな「米内光政像」。米内光政(よないみつまさ)は盛岡出身の海軍大臣・首相。盛岡中学卒業後、海軍兵学校、海軍大学校へと進む。連合艦隊指令長官などを経て、太平洋戦争を前にした昭和12年から海軍大臣、同15年から半年間総理大臣を歴任し、この間日独伊三国同盟締結に一貫して反対し続ける。同19年に海軍大臣に復帰して太平洋戦争を終結に導く。沈着にして的確な判断力と一方に偏らないその姿勢は、閣内で重きをなし、「良識の提督」として多くの信望を集めた。光政の生涯は一貫して天皇の海軍を預かる天皇の軍人といってもいいほど。相沢中佐事件、2・26事件などで、若手将校を微動だにさせなかったのは、彼の人徳と実力を現している。彼は日本海軍を侵攻用と考えず、防衛用と考えた。戦前・戦後を通じ政治に関与しながらも、軍人としての名声を保持している数少ない人物であり、能筆でも知られている。
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啄木新婚の家
岩手県 盛岡
- 観光名所
明治38年5月、処女詩集「あこがれ」を出版した石川啄木は、 東京で新婚生活をもつという生活設計を変更して、市内の新山小路(現在の中央通3丁目)に帰り、 年来の恋人堀合節子と結婚式を挙げました。しかし、父母と妹が同居する新婚生活は窮迫し、そこでの生活はわずか3週間。 同7月に市内の加賀野磧町(現在の加賀野1丁目)に移り住みます。その時の様子は随筆「我が四畳半」に描かれています。 かやぶきの屋根など当時と変わったところもありますが、ほぼ当時のまま現存しています。 啄木の書や写真なども展示されています。
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横川省三の墓
岩手県 盛岡
- 観光名所
横川省三は1865(元治2)年4月4日、盛岡下小路(現:盛岡市愛宕町)にて盛岡藩士三田村勝衛、クニの次男として生まれた。1884(明治17)年に東和賀郡十二鏑村(じゅうにかぶらむら((現:花巻市東和町)の横川佳哉と結婚したのちも、山田勇治、横川勇治といくつかの名を名乗るが、1901(明治34)年に横川省三と改名した。横川の生涯をたどると、敗戦を余儀なくされた盛岡藩士たちの明治という時代に対する衝動が感じられる。 盛岡の求我社で自由民権運動に共鳴した横川は、結婚した年の7月に上京、運動家が屯(たむろ(する「有一館」に出入りする。そこで知り合った小林篤太郎をらが起こした加山(かばさん(事件のため、1年8ヶ月間投獄された。このため下獄の際には弱冠22歳であった横川も政府に危険人物とみなされ、1887(明治20)年12月、保安条例により伊東圭介とともに皇居三里以内から追放された。ちなみにその範囲には東京23区のほとんどが含まれる。 その後、郷里で自由民権運動家として活躍、再び上京したのちには新聞記者、北米での農業経営、ハワイ移民斡旋業などの職を手がけたが、1901(明治34)年、清国公使内田康哉(うちだこうさい(の求めに応じ中国へ向かった。そこで日露戦争における特別任務班第六班班長となり、1904(明治37)年4月21日、満州ハルピンにて処刑された。 横川は獄中で読んだ『荘子』に、“日に三度己を省みる”の言葉を見つけた。その時に自身も反省が必要だと痛感、のちに省三と改名するにいたる。
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石川啄木歌碑
岩手県 盛岡
- 観光名所
「不来方のお城の草に寝ころびて……」岩手公園は啄木が学んだ盛岡中学のすぐ近くに当たり,彼は教室から逃げ出し,ここで文学の夢を結んだ。「病のごと思郷のこころ湧く日なり……」盛岡最初の啄木歌碑であり,啄木の代表的歌集「一握の砂」の中の「煙」の巻頭作品である。26年の短い生涯のうち文学に夢をはせ、恋に目覚め、新婚生活を送り、最も華やいだ青春時代を過ごした盛岡にはゆかりの地が多く、啄木の歌碑が多数点在する。
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栗山大膳の墓
岩手県 盛岡
- 観光名所
筑前福岡藩主筆頭家老。黒田騒動の後、1663年南部藩にお預けとなった。この恩流寺は、大膳については黒田騒動の史実では有名ではあるが、京極丹波守、下田将監などの墓碑もあるが、なぜそれらが南部藩内にあるかは全く知られていない。また大膳の碑文は、南部藩お預けの身となっていた無方規伯が記したもので、栗山大膳の忠節を讃えたものである。
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銭掛の松
岩手県 盛岡
- 観光名所
昔、現在の名須川町のある徳玄寺にみすぼらしい老人が現れ頭だけの如来像を銭三貫文で売っていった。しかしそのお金は翌日外の松の木にそっくり残されていた。後日和尚は頭を背負って胴体を探しにいった。ある店先で胴体のみの仏像をみつけ首をあわせてみるとピッタリとくっつき離れなくなった。和尚は不思議な因縁と思いその胴体を買い取って本堂に祀ったという。それ以来人々は不思議な出来事として参拝に訪れ、銭がかけられていた松を「銭掛の松」と呼ぶようになった。
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原敬生家
岩手県 盛岡
- 観光名所
原敬の祖父直記が嘉永3年(1850)に建てたもので、屋敷の5分の4は原敬東京遊学の際売却して学費に充て5分の1が現存するが,今も武家屋敷の面影を残している。昭和52年12月20日に盛岡市歴史的保存建造物に指定された。
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報恩寺五百羅漢
岩手県 盛岡
- 観光名所
報恩寺(ほうおんじ)は広大な座禅堂と五百羅漢(ごひゃくらかん)で藩政時代から有名です。 石川啄木がまだ盛岡中学の学生だったころ、この北山一帯の風光をこよなく愛し、級友とよく散策したといわれます。詩集「あこがれ」の中の「落瓦の賦」は報恩寺をうたったものです。また、 宮沢賢治は 盛岡高等農林学校時代に報恩寺で参禅したりしています。五百羅漢は報恩寺の羅漢堂に納められた尊像で、499体が現存しています。これらの像は、胎内の墨書銘から、1731年(享保16)、報恩寺代17世和尚が、大願主として造立、4年後に完成したことが分かっています。尊像は京都で9人の仏師によって製作され、盛岡に運んだ輸送用の箱は台座として再利用されました。五百羅漢の五百という数字は、多数という意味で、それぞれの尊者に名はなく、服装からは印度・西域・支那の僧の風貌・容姿が連想され、マルコ・ポーロやフビライ・ハンの像といわれるようになった像もあります。五百羅漢の現存は全国で50例ほど確認されていますが、木彫りで499体が現存し、造立年代、尊像の製作者まで明確に知り得るのは、全国的にもまれな例といえます。
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啄木望郷の丘
岩手県 盛岡
- 観光名所
市内が一望できる岩山山頂にあり,昭和57年,照井栄氏によって作られた「啄木望郷の像」があります。高さ345メートルの岩山山頂近くが公園として整備され、「啄木望郷の丘」として親しまれています。「啄木望郷の像」はふるさとの姫神の山にむかい、啄木がもっとも愛した「岩手山 秋はふもとの三方の 野に満つる蟲を何と聴くらむ」の望郷歌が刻まれています。そばには全国的にも例をみない詩人夫妻の”夫婦歌碑”が建てられ、啄木の「汽車の窓はるかに北に故郷の山見えくれば襟を正すも」と妻節子の「光淡くこほろぎ啼きし夕より秋の入り来とこの胸抱きぬ」の二首が刻まれています。志半ばにしてわずか20代の若さで貧しさのうちに病に冒され、相次いで世を去った二人は、今は歌となってふるさとの山河を見つめています。この公園の上にある岩山展望台からは、北上川・中津川・雫石川が流れ遠くに岩手山や姫神の美しい峰を望む「杜と水の都」盛岡を360度のパノラマで見下ろすことができます。
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立原道造詩碑
岩手県 盛岡
- 観光名所
昭和初期の詩壇にすい星のように登場し、 24歳で帰らぬ人となった四季派の叙情詩人・立原道造(たちはらみちぞう)。彼は昭和13年9月から10月まで盛岡の深沢紅子 (ふかざわこうこ)氏生家の別荘に滞在した。その間盛岡での叙景や心情を綴ったのが「盛岡ノート」。 光あれと ねがふとき 光はここにあった!・・・ で始まる「アダジオ」もこの作品の中の一つで、愛宕山中腹の松林の中に碑が立っている。付近は立原が滞在の折に散策した、なだらかで美しい丘陵です。 死の前年の秋,盛岡に約1カ月逗留。盛岡での叙景や日々の心事をつづった「盛岡ノート」の中の一編である。
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宮沢賢治詩碑
岩手県 盛岡
- 観光名所
盛岡で中学・高等農林時代の青春期を過ごした詩人童話作家。賢治の死の一カ月前にあたる8月22日の日付のある文語詩百編の中の一つ。※「かなた」と老いしタピングは 杖をはるかにゆびさせど 東はるかに散乱の さびしき銀は声もなし なみなす丘はぼうぼうと 青きりんごの色に暮れ 大学生のタピングは 口笛軽く吹きにけり 老いたるミセスタピング 「去年(こぞ)なが姉はこゝにして 中学生の一組に 花のことばを教へしか」 弧光燈(アークライト)にめくるめき 羽虫の群のあつまりつ 川と銀行木のみどり まちはしづかにたそがるゝ
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石造十六羅漢付五智如来
岩手県 盛岡
- 観光名所
江戸時代の盛岡藩の4大飢饉といわれる元禄・宝暦・天明・天保の大凶作によって、領内には多くの餓死者が出た。祇陀寺14世天然和尚は、その悲惨な餓死者を供養するために、十六羅漢・五智如来の合計21体の石仏建立を発願した。そして領内から浄財の喜捨を募って、天保8年(1837)工事に着手した。下絵は藩の御絵師狩野林泉が描き、石材は市内の飯岡山から切り出し、藩の御用職人の石工7人が3年かかって荒刻みを行い、北上川で舟を渡して、建設場所の祇陀寺末寺の宗龍寺境内に運びいれ、最後の仕上げをしたものだという。しかし、宗龍寺は明治維新後に廃寺となり、明治17年(1884年)に盛岡の大火で寺院も焼失したので、現在21体の石仏群を残すのみである。
盛岡市・つなぎの観光名所探し
盛岡市・つなぎで体験できる観光名所の店舗一覧です。
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