南種子町(熊毛郡)の史跡 スポット 7選
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砂坂孫左エ門の碑及び業績
鹿児島県 種子島
- 史跡
砂坂孫左衛門の碑は、官造牧から西の海岸に降りた高瀬原にあります。この高瀬原付近は断崖絶壁で通路がなく、干潮時は危険な磯つたいを、満潮時は山手の急な道を3倍近くも遠回りして通るという大変不便なところでした。この難所に独力で道を開通させたのが砂坂孫左衛門です。その業績をたたえ後世へ伝えていくために、昭和2年西之青年会により建立されました。明治4年45歳の時、孫左衛門は娘の病気の平癒を神仏に願い、また人々のために高瀬原に道を作ることを決心。作業は困難を極め、かつ健康回復の願いかなわず娘は世を去ってしまいました。それでも孫左衛門は道路づくりを続け、その強い熱意に感動した集落の人々もいつしか孫左衛門に協力するようになり、ついに明治10年8月、12町(1,300m)余りの道が完成しました。
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一陣長崎鼻貝塚遺跡
鹿児島県 種子島
- 史跡
南種子町南部・中之下字一陣の太平洋に面した砂丘上にあります。昭和29年1月、土器片・骨片などが発見されたことにより、昭和31年8月、広田遺跡を発掘した盛園尚孝氏が中心となり、南種子高校生が参加し、本格的な発掘調査が行われました。調査の結果、この貝塚は、縄文時代晩期の遺跡であることがわかりました。出土品は、石斧・鹿や猪の歯・鯨の椎骨・海亀の上下顎骨・魚骨・土器等で、ジュゴン製のかんざしも出土しています。また、この貝塚から出土した老人に近い男性の人骨に、風習的な抜歯や人為的な水平研歯が施されていて、南島における縄文時代の抜歯風習を考える上で貴重な資料といえます。平成21年には、町教育委員会によって発掘調査が行われました。その際、広田遺跡の人骨が身につけていたものと同じ貝輪(オオツタノハ貝輪)が出土しました。この遺跡は、広田遺跡より1,000年以上古い遺跡ですので、この貝輪は、種子島における最古の貝製装身具といえます。
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貫門
鹿児島県 種子島
- 史跡
この門は、慶長2(1597)年の「豊臣秀吉朝鮮出兵」に際し、十六代島主種子島久時公率いる島津軍種子島勢の水手(船員)として従軍した網切吉右衛門の功績を立てたことにより作られました。南種子村沿革史に「御沙汰書を害虫に侵され其実績を詳にすることは能はざれども口碑によれば、我が種子島に於いて作りたる木船に乗り朝鮮興善島に押しかけたとき、敵、明軍は金網を張り防禦したが我が水手は能くそれを切り破り軍を進めたりぞ」との記述があります。帰島後、その功績を後世に伝えるため、久時公より代々、貫門を立てることを許可され、さらに網切の名と帯刀を許されることになったといわれています。門の形は2本の柱を立て、上方をくりぬき、貫を通した作りになっています。この型の門は、島主の許可がなければ立てられないものでした。
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上妻城址
鹿児島県 種子島
- 史跡
島間向方の島間小学校から豊受神社一帯の地形を利用した標高約75〜110mに立地する山城です。現存するのは土塁(土塀)と堀切で、下城・内城・仮屋・水上などの地名が残っています。水上城・仮屋(居住場所)・内城(政務を行う)の3つの曲輪(周囲に土や石の囲いを設けた平地)が東西に連なっていて、さらに外城・殿川・桜園など合わせて6つの曲輪群で構成された山城と考えられています。 上妻城に関する記録は残されていませんが種子島家譜では肥後信基(種子島氏元祖)が北条時政から種子島・屋久島など南島12島を与えられた時、種子島地頭は大浦口氏で代官が上妻氏であったとされています。言い伝えではその代官(在島)だった上妻氏の居城だといわれていますが確証はありません。上妻城の特徴はその規模の大きさにあり、大隅諸島最大です。また、自然地形を利用し、堀切が深く、各曲輪の独立性が強い南九州地域に見られる中世城郭に類似しています。
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菊池竹庵の墓
鹿児島県 種子島
- 史跡
南種子町東部の平山豊受神社内の奥、忠霊碑や西南戦争の招魂碑などとともに菊池竹庵の墓が建てられています。竹庵は文政12(1829)年に平山の瑞堯(ずいぎょう。現在は水牛)に生まれました。5歳の時に西之表の慈遠寺(現在の八坂神社)の小僧となり、その才能が認められ、10歳から鹿児島の正建寺(種子島家菩提寺)で修行しました。19歳の時、上洛し伊賀の法華寺に身を置きながら尊王攘夷を志し奔走しました。竹庵は尊王派の志士と交流があったことから一時、新撰組に捕縛されました。釈放後は、本能寺の末寺・東漸寺の役僧となっています。戊辰戦争で新政府軍が東征した際、竹庵は自ら進んでその道案内と敵情を探る役を申し出、上総国(千葉県)の五井で、敵陣営に忍び込みましたが、見つかり殺害されてしまいました。竹庵の遺体は、上総の八幡宿駅近くにある円頓寺に仮埋葬されたのち明治3年3月22日、東京の泉谷山大圓寺(杉並・永福町)に改葬されました。大圓寺境内にある「戊辰戦争薩軍死者の墓」や鹿児島市の照国神社内「戊辰之役戦士顕彰碑」には竹庵の名も刻まれています。
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広田遺跡
鹿児島県 種子島
- 史跡
広田遺跡は、鹿児島県種子島の南種子町にある弥生時代後期後半から古墳時代併行期(3世紀から7世紀頃)にかけての集団墓地です。 この遺跡は、太平洋に面した砂丘に豊富で多彩な貝製品が副葬された人々が埋葬されていました。 調査の結果、90箇所の埋葬遺構と157体の人骨、総数44,000個に及ぶ貝製品が出土しました。貝製品の中には、南海産の貝を素材とした腕輪、首飾り、貝符等があります。これらの貝製品の形状や文様は、南島文化との関連性を示唆していますが、貝製品の中には広田遺跡特有のものも多く、広田遺跡の人々は南島文化を取り入れつつ独自の豊かな文化を形成していたと考えられています。出土品は国の重要文化財に指定されています。 隣接地に『広田遺跡ミュージアム』があり、広田遺跡についてのことが詳しく学べます。
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横峯遺跡
鹿児島県 種子島
- 史跡
種子島で初めて発見された旧石器時代の遺跡。発掘調査によって旧石器時代・縄文時代草創期・縄文時代早期という3つの時期にわたって、人がこの地に住んでいた跡が見つかりました。旧石器時代の層は3層確認され、特に種IV火山灰と呼ばれる約3万年前の火山灰の下にある層で見つかった礫群は、国内最古級の調理場跡の発見として大変注目を集めました。また、敲石や台石、磨石、礫器も見つかっています。3万年前の遺跡は全国的にも発見例が少なく、種子島の旧石器遺跡群は琉球列島の旧石器文化の成立やその性格・内容を研究するうえで、学術的に大変重要であることがわかっていて、後世に守り伝えていくべき貴重な文化遺産といわれています。
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