福島・二本松の文化史跡・遺跡 スポット 20選
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磐梯吾妻スカイライン
福島県 福島・二本松
- 旧街道
「磐梯吾妻スカイライン」は、福島市にある日本で最も美しいドライブルートの一つです。全長約29km、最高標高1,622mの道路は、まるで空を走るかのような壮大な景観を楽しむことができます。 磐梯吾妻スカイラインは「日本の道100選」にも選ばれており、ドライブ愛好家や写真家たちの間では有名なスポットです。最近ではTwitterでも「日本のアリゾナ」と称され、非日常的な絶景を楽しみたい方からの注目を集めています。 春・夏・秋と季節の移ろいごとに異なった絶景を楽しむことができ、つばくろ谷や浄土平などの絶景スポットが点在するこの道路は、訪れる人々を魅了し続けています。 磐梯吾妻スカイラインで、壮大な自然景観に包まれたドライブを体験してみてはいかがでしょうか。
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人取橋古戦場跡
福島県 福島・二本松
- 史跡
天正13年11月17日、常陸の佐竹氏、会津の芦名氏等の連合軍3万と伊達政宗軍7千が戦った古戦場。戦いは日が没して両軍が兵を引いた。現地に伊達氏の名将、茂庭左月の碑(文政11・1828建立)と共に伊達方の戦死者が合葬されている〔功士壇〕
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堰下古墳
福島県 福島・二本松
- 史跡
発掘調査により、埴輪と石製模造品が出土している。
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王壇古墳
福島県 福島・二本松
- 史跡
直径10mほどの円墳。周囲には溝が残存しており、当時の姿をとどめている。
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石母田供養石塔
福島県 福島・二本松
- 史跡
高僧が親の百ヶ日供養のため建立したもので、書は元の帰化僧一山一寧による。
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藤田城跡
福島県 福島・二本松
- 史跡
鎌倉〜室町時代の平山城。源頼朝の本陣が置かれたとの伝説が残り、伊達一族である藤田氏の居城と推定される。南北朝時代には南朝方の霊山城の支城であったが北朝軍に攻められ、貞和3年(1347年)霊山とともに落城した。
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義経の腰掛松
福島県 福島・二本松
- 史跡
平安時代末、源義経が平泉に下向する際、腰を掛けたとの伝説が残り、樹形が大変優美な松でした。江戸時代に多くの旅人や文人が訪れた初代松は、現在幹を覆屋で保存しており、その傍らに二代目松から接木した三代目松を育成しています。
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梁川城跡及び庭園
福島県 福島・二本松
- 史跡
伊達氏の本拠となった城跡のひとつです。丘陵突端部を利用した平山城で、南は広瀬川の断崖、西は段丘、北は中井戸と呼ばれる大堀、東も大きな堀で画されていました。 独眼竜で有名な政宗も梁川亀岡八幡神社参拝の折に逗留しています。 江戸時代には、梁川藩三万石の居城となり、頻繁に城主が交代しています。 梁川城本丸があった場所には、中世庭園が一部復元ではありますが、ほぼ当時のままの姿で残っており、県指定史跡名勝になっています。
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高子岡城跡
福島県 福島・二本松
- 史跡
伊達氏が初めて居城したと伝えられる場所です。 源頼朝の奥州征伐が行われた文治5年(1189年)。頼朝公に従軍した常陸国の中村一族は、この戦いの功により頼朝公から恩賞として伊達郡を拝領し、後に高子岡に居城しました。その際姓を「伊達」に改め、鎮護の神として亀岡八幡宮を祀ったといいます。ゆえに、ここが「伊達氏発祥の地」と伝えられているのです。 現在は、伊達氏ゆかりの八幡宮がひっそり建ち、往時の姿を偲ばせています。
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霊山城跡
福島県 福島・二本松
- 史跡
霊山には、慈覚大師が開山した霊山寺が山頂にあり、南奥州の信仰の中心地としたと考えられています。 南北朝時代、北畠顕家が義良親王を奉じて霊山に立てこもった際、山頂に砦が築かれました。南北朝の合戦は霊山城や藤田城など伊達郡内でも行われ、霊山城は貞和3年(1347年)8月ごろ落城、霊山寺も全焼したといわれています。 ◎北畠顕家(1318-38)親房の長男。建武中興後、義良親王(後村上天皇)を擁し多賀国府に下る。鎮守府将軍として足利尊氏蜂起後は奥羽宮方の柱石となる。のち拠地を霊山城(福島県)に移すが、暦応元年、和泉国で討死。
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白山遺跡
福島県 福島・二本松
- 史跡
複式炉のある縦穴住居跡,トンガリ帽子形の住居が復元されている。
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二子塚古墳
福島県 福島・二本松
- 史跡
全長60m高さ5mの古墳中期の前方後円墳である。
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傾城壇古墳
福島県 福島・二本松
- 史跡
全長41m後円部直径27mの古墳時代前期の大型前方後円墳。
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旧奥州道中国見峠長坂跡
福島県 福島・二本松
- 史跡
古来より奥州街道における要衝の地にあり、倹阻な山坂として著名な国見峠の難所跡。芭蕉記念碑、外2碑がある。
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小浜城址(下館)
福島県 福島・二本松
- 史跡
築城年代は不明だが、天正のころ大内定綱が居城していた。天正13年(1585)伊達政宗はこの城を攻略して、父輝宗を入れた。その時二本松城主畠山義継が伊達氏に降伏し、宮森城(上館)の輝宗のもとに降伏を許された礼に参上した。その時、突如として輝宗の胸元に刃を突きつけ、驚きあわてる伊達の家臣らを尻目に、二本松城に引き揚げようとした。それを聞いた政宗は、阿武隈河畔で追いつき、父もろとも義継を射殺した。城跡は現在、児童公園になっている。
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四本松城址(古館)
福島県 福島・二本松
- 史跡
小高い丘になっており小さな社がある。
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宮森城址(上館)
福島県 福島・二本松
- 史跡
伊達政宗がこの地に滞在の折、父輝宗の居城として用いられた。輝宗公が殺害された粟ノ巣の変の起こりはここから始まる。現在は神社があり、地元住民の広場として利用されている。当時の敵地、三春方面を望むような(現在は木々に隠れている)高台の形状が城跡としてのなごりを残している。
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木幡山経塚群と蔵王堂跡
福島県 福島・二本松
- 史跡
昭和54年県の史跡に指定された経塚は、末法思想が盛んだった平安末期にお経を埋めたところで、木幡山の尾根に一線上に経塚6基が並んであり円形・長方形とさまざまで、径が2〜4m、高さ1m前後で中央に石室があります。経文を埋納した容器や搬出物の完全なものは、盗掘にあい失われていますが、木幡山より出土したといわれる経筒が奈良の国立博物館に保存されています。この経塚からは、和鏡片2、刀子2、古銭(宋銭)、須恵器、土師器片などが多数出土しています。 経塚群の西端にある立石の基部付近からも土師器、古銭が出土しており藤原時代12世紀の経塚と見られ県内でも、重要なものです。
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小手森城跡
福島県 福島・二本松
- 史跡
小手森城址は小野主水、荒井半内、石川勘解由、小形源五兵衛それに定綱の甥菊地顕綱らが守る堅城でした。天正13年二本松、会津攻めを図っていた伊達政宗は、まず、大内氏の領する東安達の拠点、小手森城への総攻撃を開始しました。8月23日のことでした。城は、大内備前守定綱の臣、菊地顕綱らが守っていましたが力尽き、8月27日ついに落城しました。政宗は、兵と共に城にこもった農民の老若男女を合わせ、800余名のすべてを斬り殺しました。織田信長の比叡山焼き討ちにも比すべきものであったと言われています。この戦いの後、功により小手森城を与えられた石川弾正は、天正16年、伊達勢に抵抗し小手森城に兵を上げました。政宗は同年5月12日優勢な兵をもって、背臣への総攻撃をかけたのでした。戦火まだ治まらぬ、わずか3年後の出来事です。小手森城は再び500余名が討死するという悲劇に見まわれたのでした。豊臣秀吉による全国統一(1590年)の2年前のことです。このように、この城は、伊達正宗により2度の攻撃を受け、千数百名が討死にしたと今に伝えられています。現在は石塁のみが寂しく400年前を物語っています
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住吉城跡
福島県 福島・二本松
- 史跡
四本松城跡又の名を住吉城と呼称するこの社は、天喜3年(1055年)、源義家の武将伴次郎助兼がこの地を治めたときこの住吉山に城を築き、自分の前任地であった摂津住吉浦より岸の姫松4本を運び屋形の内に植え、同時に住吉4座の神を祭司し、これにより東安達を四本松の庄と称し社号を四本の松住吉神社、城名を四本松城又の名を住吉城と呼称しました。代々伴氏が東安達を領主としましたが、文治5年(1189年)の文治の役に当主武知が戦死してこの城が滅亡しました。田原次郎秀行がその後入国してこの地を治めましたが、2代成清のとき城を川向古舘に移して城の名前も『四本松城』と名称を変更しました。その後石橋氏5代義衡が文明3年(1470年)古舘からこの地に移し、8代義久のとき、また舘を古舘に移したため社のみとなりました。
福島・二本松の文化史跡・遺跡探し
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