常総・結城・桜川の文化史跡・遺跡 スポット 20選
-
丸山古墳
茨城県 常総・結城・桜川
- 史跡
崇神天皇の第一皇子豊城入彦命の墓といわれる全長60m,高さ7mの前方後方墳。
-
逆井城跡公園
茨城県 常総・結城・桜川
- 史跡
逆井城は旧飯沼に臨む高台にあります。この旧飯沼は南北約30Kmにわたり、城は自然の要害に守られていました。佐竹・結城・多賀谷氏らとの領国の境目として、北関東出身をめざす後北条氏の最前基地であったようです。天正18年(1590)、後北条氏の滅亡とともに廃城となったといわれています。昔のままの姿をとどめる土塁・空堀は周辺地域とともに歴史公園として、住民の憩いの場となっています。 春には逆井城跡公園の歴史的な建物群と、260本以上の桜の花が独特の雰囲気を醸し出します。また、一重でピンクの花びらがきれいな地元生まれの桜「紅猿島(べにさしま)」も見ることができます。
-
豊田城「地域交流センター」
茨城県 常総・結城・桜川
- 城郭
石下地方に500有余年にわたり、栄えた豊田氏の城を復元。平成4年にオープンした展示館は平成29年4月29日にリニューアルオープンしました! 1・2階:多目的ホール、図書館 3、4階:石下の歴史、産業の展示 5階:コミュニティ&キッズスペース(リニューアル) 6階:常総市出身の作家「長塚節」デジタル展示室(リニューアル) 天守閣は高さが48.5mあり、天気が良ければ関東平野や東京スカイツリーが一望できます。
-
宗道河岸跡と開田記念碑
茨城県 常総・結城・桜川
- 史跡
鬼怒川舟運の拠点。本宗道から宗道にかけて上・中・下の三つの河岸問屋あり。宗道神社裏手に説明板。
-
柴崎古墳1号・2号
茨城県 常総・結城・桜川
- 史跡
2基の前方後円墳。
-
子飼の渡し跡
茨城県 常総・結城・桜川
- 史跡
平将門と叔父たちが合戦に及んだ古戦場。小貝川の渡河。 将門が承平7年8月6日、常陸と下総の国境である子飼の渡で良兼の軍と戦ったのがこの辺りであろうと推定される。
-
鎌輪之宿跡
茨城県 常総・結城・桜川
- 史跡
「平将門公鎌輪之宿址碑」がある。推定地は西方100mの鎌庭字館野周辺。 将門が相馬御厨下司職を捨て、争いを離れ、平和に生きようとした土地である。
-
坂下の官公庁街と水海道街道
茨城県 常総・結城・桜川
- 旧街道
水海道と下妻を結ぶ旧街道。結城郡役所がおかれ、政治・経済・文化の中心地として繁栄。
-
新治廃寺跡
茨城県 常総・結城・桜川
- 史跡
堂塔伽藍の跡が発見され、奈良時代の寺と推定される。新治郡衙跡も確認された。
-
真壁城跡
茨城県 常総・結城・桜川
- 史跡
平安時代末から戦国時代までのころの真壁氏の居城。
-
加波山旗立石
茨城県 常総・結城・桜川
- 史跡
加波山頂にあり、明治17年の加波山事件の際「自由の魁」の大旗をひるがえしたところ。
-
船玉古墳
茨城県 常総・結城・桜川
- 史跡
県指定史跡の円墳。玄室の側壁、奥壁に絵を描いたあとがある。
-
関城跡
茨城県 常総・結城・桜川
- 史跡
暦応4年(1341)11月、南朝の功臣北畠親房を迎え入れた城主関宗祐。宗政父子は、わずか300名の劣勢で、北朝方の高師冬率いる大軍と2年間にわたる攻防の末、ついに関父子は刀折れ矢つきて自刃した。親房は命からがら脱出し、吉野へ逃れた。土塁や空堀が残り、坑道跡も見ることができる。
-
瓦塚窯痕
茨城県 常総・結城・桜川
- 史跡
瓦類を製造するため、粘土質の地山をくりぬいて構築した「地下式有段登窯」23基の窯跡がある。
-
古河城跡
茨城県 常総・結城・桜川
- 史跡
鎌倉時代、源頼朝の家臣下河辺行平が築城したのが最初という。慶長6年松平康長が二万石で入封して近世城郭として整えられた。城主は幕府の要職にあったものが多く古河が日光、奥州の両街道に面した要地であったことを裏付ける。◎土井利勝(1573-1644)徳川秀忠の側近。秀忠没後古河城主となり、大老となった。◎土井利位(1783-1848)古河藩主。大坂城代、京都所司代、老中など幕府の要職を歴任。一方、雪の研究家としても有名。◎鷹見泉石(1785-1858)古河藩家老として藩主土井利位を補佐。蘭学研究者としても海外地理研究に名を残す。
-
石井の営所(島広山)
茨城県 常総・結城・桜川
- 史跡
岩井市街地から結城街道を沓掛方面へ向かうと、国王神社手前に信号があります。その交差点を右折し、延命寺に向かう途中の台地を島広山と称します。ここに将門が関東一円を制覇するときに拠点とした石井営所跡があります。 明治期に建てられた石碑の周辺を整備し、重さ20トンの筑波石を自然のままに置き、石の表面には「島広山・石井営所跡」と刻まれており、右側の副碑には、将門の事績と営所についての説明文が添えられています。 石井営所が『将門記』に現れるのは承平7年(937)のことです。将門の雑役夫を務めていた丈部小春丸が平良兼の甘言につられてスパイとなり、すぐに営所内を調べあげて良兼に知らせます。良兼は好機到来とばかり精兵八十余騎で石井営所に夜襲をかけますが、将門方の郎党の急信により大敗します。 石井営所の周辺には、重臣たちの居館、郎党などの住居などが並び、そのうえ、将門が関八州を攻めたときには2千騎、3千騎が終結しているので、軍勢が集まった時の宿舎や食糧庫並びに馬繋ぎ場などが必要でした。今の上岩井から中根一帯に、これらの施設が設けられていたと考えられています。 石井営所は、名実ともに将門の政治、経済、軍事の拠点として賑わいましたが、天慶3年(940)、将門は藤原秀郷と平貞盛の連合軍と合戦して破れ、営所の建造物が焼き払われてしまいました。
-
小島草庵跡
茨城県 常総・結城・桜川
- 史跡
新鸞上人が布教のために庵をむすんだところ。親鸞は、その生い立ちから、配流、妻帯、東国移住の動機、小島居住説をはじめ、その生涯について、いろいろな論がなされており、親鸞伝の決定版はまだ見られないが、当地には次のような伝承が残されている。越後流罪と滞留7年の後、親鸞は建保2年(1214)妻子を伴って上野国佐貫を経て、常陸国に入り、最初に居住したのが、ここ小島草庵である。小島郡司の武弘が親鸞の徳を慕い、この地に草庵を設けて迎えた。ここに3年間滞留し、越後で果たせなかった真宗念仏の伝道に積極的に乗り出した。いわばこの草庵(三月寺)こそ真宗開祖の親鸞が関東おいて真価を発揮した最初の土地である。親鸞の高弟蓮位坊は当地出身といわれ、子孫は下間氏と称して、鎌倉時代から現代に至るまで、東・西本願寺の坊間を勤めている。 草庵跡には「親鸞聖人御旧跡」、「三歳御住居」とした古碑、欽明天皇、用明天皇、聖徳太子の墓に、後に親鸞の墓を加えて「四体仏」と呼ぶ五輪塔と、親鸞を慕ったという「稲田恋しの銀杏」の大樹がある。
-
多賀谷城本丸跡
茨城県 常総・結城・桜川
- 城郭
市内本城町に戦国時代にあった城。もと結城氏の重臣であった多賀谷氏によって、15世紀の半ば(寛正年間)に築城されたといわれた。その後、多賀谷氏は矢田部、水海道以南にまで領地を拡大したが、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに参陣しなかったため、城地没収のうえ追放された。明治22年(1889)本丸跡の台地に多賀谷氏遺跡碑が建てられるまで下妻城と呼ばれた。現在、多賀谷城跡公園となっている。
-
駒城跡
茨城県 常総・結城・桜川
- 城郭
南北朝時代にあった城跡。東西約120メートル、南北約180メートルで城跡の北西部に「駒城址」の碑がある。駒館、駒楯城ともいわれた。駒城は小田城(つくば市)、関城(筑西市)、大宝城とともに常陸国における南朝方の戦略的拠点として重要な存在であった。在地の武将の名は確定できないが、中御門少将実寛を擁して奮戦し、興国1・暦応3年(1340)5月27日、北朝方の将高師冬の猛攻により実寛は生け捕りにされ、やがて落城したといわれる。
-
大宝城跡
茨城県 常総・結城・桜川
- 城郭
平安時代から南北朝時代にかけてあった城跡。西、北、および東方の一部を旧大宝沼に囲まれた台地の自然の地形を利用して造築された城郭であり、東方も古い時代は沼か湿地であったと思われるから三方断崖に面した要害の地であった。 東西288メートル・南北576メートルで台地の北方を本丸、南方を大手、東を搦手とした。興国2・暦応4年(1341)11月、春日中将顕国が興良親王を奉じて小田城よりここに移ってから、東国における南朝方の拠点となった。その後、北朝方の猛攻をうけて苦戦を続け、食料不足と場内不和のため、興国4・康永2年(1343)11月12日落城。城主下妻政泰は討死したといわれる。 城跡は大宝八幡宮の境内として今にその面影を留めている。八幡宮裏に昭和6年(1931)5月建立の「贈正四位下妻政泰忠死之地」の碑と、昭和18年(1943)11月の「下妻政泰公碑」が建っている。
常総・結城・桜川の文化史跡・遺跡探し
常総・結城・桜川で体験できる文化史跡・遺跡の店舗一覧です。
アソビュー!は、常総・結城・桜川にて文化史跡・遺跡が体験できる場所を取り寄せ、価格、人気順、エリア、クーポン情報で検索・比較し、あなたにピッタリの常総・結城・桜川で文化史跡・遺跡を体験できる企業をご紹介する、国内最大級のレジャー検索サイトです。記憶に残る経験をアソビュー!で体験し、新しい思い出を作りましょう!
アクティビティの予約、レジャーチケットの購入なら日本最大の遊びのマーケットプレイス「アソビュー!」にお任せ。パラグライダーやラフティングなどのアウトドア、陶芸体験などの文化体験、遊園地・水族館などのレジャー施設、日帰り温泉などを約15,000プランを比較・購入することができます。