鎌ケ谷市の観光施設 スポット 5選
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魚文の句碑
千葉県 舞浜・浦安・船橋・幕張
- 観光施設
「ひとつ家へ 人を吹き込む 枯野かな 魚文」(銘文) 松尾芭蕉の流れをくむ俳人三級亭魚文が、旅の途中で鎌ケ谷宿を通った時に詠んだ句と思われる。「明和元年(1764)、武陽産高橋氏建立」とある。木下街道の道標を兼ね、「右 木をろし道」「左 中木戸道」と刻まれている。 木下街道は古くは木下河岸と行徳河岸を結ぶ輸送路として、その後も江戸から鹿島方面への参詣や銚子方面へ向かう人々で賑わい、鎌ケ谷宿にも多くの文人墨客が往来していた。古くは松尾芭蕉が弟子を伴い「かしま紀行」を残している(貞享4年(1678))。また、渡辺崋山は文政8年(1825)に鎌ケ谷宿付近で「四州真景図」の「釜原」を描いている。この絵柄は、現在きらり鎌ケ谷市民会館きらりホールのどん帳画にもなっている。
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百庚申
千葉県 舞浜・浦安・船橋・幕張
- 観光施設
八幡神社境内に、天保12(1841)〜13年にかけて建てられた。青面金剛像が10基あり、その間に文字塔(「庚申塔」)が9基ずつの90基と合わせて100基ある。石塔(石像)を同じ場所に多く造立して、多くの功徳を得るため、100基という多数が建てられたものである。江戸時代後半に下総で流行した信仰形態である。
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官軍兵士の墓
千葉県 舞浜・浦安・船橋・幕張
- 観光施設
慶応4年(1868)、江戸幕府の滅亡に反発した旧幕府軍の一部と鎮圧に向かった新政府軍とが、市川・船橋周辺で激しい戦いをした。その折、鎌ケ谷大新田付近で、新政府軍側の佐土原藩(現宮崎県宮崎市佐土原町)の士分1名(俗名:蓑毛次右衛門)と兵糧方1名(俗名:巳之助、兵糧を輸送した農民と思われる)が戦死した。ここにはその当時、佐土原藩の弔い料により建てられた墓石と明治19年(1886)に新政府軍側の戦死者に対して千葉県の官費で建てられた墓石がある。この新政府軍と旧幕府軍の戦争による死傷者の数はわかっていない。新政府側の兵士の墓はこのように所々で確認できるものの、旧幕府軍の戦死者は、当時、墓石に名前を刻むことすら難しかったため、ほとんど確認できない状態である。しかし、下総地方には幕府直轄の牧場があったなど旧幕府軍に与する傾向があり、一部で脱走様と呼ばれる旧幕府軍兵士の墓と思われるものも存在する。
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土地紀念講碑
千葉県 舞浜・浦安・船橋・幕張
- 観光施設
初富開墾は牧の廃止後、江戸での仕事を失った人々を救済するために明治2年(1869)から始まった。しかし、当初の入植者には町人など農作業に慣れていない者が多かった上に、作物の不作が重なったため、多数の離散者が出たり、開墾会社と開墾人との間で土地の取り扱いについて土地騒動が起こるなど困難をきわめたものであった。その後、近隣の村々から移住してきた農家出身者も加わり、苦しい中でも徐々に開墾を成功させていった。その子孫が集まり、当時の生活を忘れないように芋粥をすすって祖先をしのび、励まし合ったのが土地紀念講である。この碑は開墾50周年を記念して、大正7年(1918)に建てられたもので、現在光圓寺の境内に残っている。
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鎌ケ谷大仏
千葉県 舞浜・浦安・船橋・幕張
- 観光施設
安永5年(1776)、鎌ケ谷宿の大国屋(福田)文右衛門が、祖先の供養のために、江戸神田の鋳物師に鋳造させたもの。高さ1.8メートルの釈迦如来座像である。開眼供養には僧侶50人あまりを請じ、江戸の高級料理屋八百膳で300人前の料理を用意し、当時「つぼに白金、お平にゃ黄金、皿にゃ小判でとどめ刺す」と唄い囃されたと豪勢な様子が伝えられ、鎌ケ谷宿の盛時の有り様がうかがえる文化財である。
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