伊勢・二見の文化史跡・遺跡 スポット 9選
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古市街道
三重県 伊勢・二見
- 旧街道
近世、伊勢神宮へ集団参宮する「おかげ参り」が盛んになり、最盛期には480万人を数えた。このおかげ参りとともに、内宮と外宮とをつなぐ参宮街道沿いに発達したのが古市の町である。現在、参宮街道沿いには、嘉永4年(1851年)に建てられた旅館・料理屋「麻吉」があり、往時の古市の栄華を偲ばせている。木造5階造で、各階は古風な階段や廊下で結ばれている。その他、近くに「伊勢音頭恋寝刃」の主人公、油屋お紺と孫福斎の墓のある大林寺や、月僊上人で名高い寂照寺等がある。また伊勢古市参宮街道資料館は、日本の三大妓楼のひとつとして著名であった古市妓楼などの関係資料を展示しています。
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旧豊宮崎文庫
三重県 伊勢・二見
- 史跡
慶安元年(1648)、外宮権禰宜・出口延佳(でぐちのぶよし)らによって創設されました。 内宮の「林崎文庫」とならんで書籍の収集・収蔵、学問所として栄えました。 現在、建物としては三間棟門と練塀のみが残っています。
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旧林崎文庫
三重県 伊勢・二見
- 史跡
元禄3年(1690)、「内宮文庫」が林崎に移転して「林崎文庫」になりました。 書籍の収集・収蔵、祀官子弟の教育、伊勢と文化的先進地との交流の場として明治まで利用されました。 講堂と神庫は当初の状態をよく保っており、貴重な遺構となっています。
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朝熊山経塚群
三重県 伊勢・二見
- 史跡
伊勢湾台風で倒れた木の整理作業中に発見されました。 造営の時期については確認できる範囲で保元元年(1156)から文治2年(1186)までの約30年間になりますが、出土品から見るともう少し前後に広がると考えられます。 神宮の祠官や僧侶が願主になっており、末法思想による経塚造営の風潮が神宮の禰宜層にまで浸透していたことがうかがえます。
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熊野街道・初瀬街道・参宮街道
三重県 伊勢・二見
- 旧街道
大和朝廷が確立し、伊勢神宮が神威を増すにつれ、人々にとって伊勢は次第に憧れの場所となった。やがて、大和と伊勢を結び、後に伊勢本街道とも中街道とも呼ばれる「初瀬(はせ)街道」が開かれ多くの人や文化を流通させる動脈となった。都が奈良へ京都へ移り変わっても、伊勢への道が開かれた。玉城町はこれら3街道の合流地であり、熊野街道の起点でもあります。
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田丸城跡
三重県 伊勢・二見
- 史跡
南北朝時代に北畠親房が築き,愛洲氏を城主とした城で,当時は玉丸城と呼ばれ,城をめぐって攻防戦が展開された。天正3年(1575)北畠信雄が3層の天守閣をもつ堅固な城に改修し,田丸城と改称した。しかし焼失し,関ケ原合戦のあと,稲葉道通が大修築を加えたが,元和5年(1619)紀州藩領となり,家老の久野氏が6万石で管理した。城跡は城山公園になっているが,石垣や,内堀が残っている。◎北畠親房(1293-1354)村上源氏の後裔。吉野朝武将として活躍し,『神皇正統記』を著して,南朝の柱石と謳われた。三男顕能が伊勢国司に任ぜられ,子孫は長く伊勢に君臨。
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離宮院跡
三重県 伊勢・二見
- 史跡
離宮院は斎王(伊勢神宮に奉仕する未婚の皇女・王女)が伊勢神宮に奉仕する際に宿泊所としていた施設で、大神宮司の政庁や度会郡の駅家でもありました。 一時期、斎宮が移ってきたこともあります。 現地には土塁が残っています。
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五ケ所城址
三重県 伊勢・二見
- 史跡
愛州氏は,北畠氏が伊勢国司になる前から南伊勢の豪族。宝徳年間(1449-51)山深い一之瀬城から五ヶ所湾をのぞむ五ヶ所城に本拠を移したとみられる。のち織田信雄に滅ぼされ,城も廃されたらしい。
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山田奉行所跡
三重県 伊勢・二見
- 史跡
江戸幕府が設置した遠国奉行の一つ、山田奉行が政務を執った役所跡です。 寛永12年(1635)、山田奉行・花房志摩守が現在地に移築後、明治にいたるまでこの地に奉行所が置かれました。 現在、書院、お白州など公的部分の一部を山田奉行所記念館として復元しています。
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