三鷹市・井の頭公園の観光施設 スポット 8選
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近藤勇の墓
東京都 新宿・中野・杉並・吉祥寺
- 観光施設
龍源寺の門前には、六地蔵・庚申塔などと並んで近藤勇の胸像がある。そして、本堂裏の墓地には勇の墓がある(都指定旧跡)。勇は天保5(1834)年、龍源寺からほど近い宮川家に生まれた。16歳で天然理心流の剣士・近藤周助(周斉ともいう)の養子となる。文久3(1863)年土方歳三らと京都に上り、慶応3(1867)年大政奉還までの4年間が、よく知られている新選(撰)組の活躍した時期である。京都・鳥羽伏見の戦いで銃撃を受けて江戸へ帰る。その後、甲陽鎮撫隊を組織して、山梨県勝沼に官軍を迎え撃つが、大敗して千葉県流山で投降する。慶応4(1868)年4月25日、板橋刑場で処刑された。35歳であった。遺骸は遺族や門弟によって密かに運ばれ、龍源寺の墓地に葬られたといわれている。法名は貫天院殿純義誠忠大居士。現在の墓域は昭和31(1956)年に改修されたものである。
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太宰治の墓
東京都 新宿・中野・杉並・吉祥寺
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太宰治は、明治42(1909)年、青森県北津軽郡金木村(現・金木町)に、県内屈指の大地主の子として生まれる。東京帝国大学仏文科在学中、井伏鱒二に出会い、師事する。昭和14(1939)年1月井伏夫婦の媒酌で結婚。同年9月に甲府から三鷹の下連雀に転居する。以後、終戦前後の一時期を除き、亡くなるまで三鷹で過ごす。三鷹時代に「走れメロス」「人間失格」「斜陽」など多くの名作が書かれた。昭和23(1948)年6月13日の深更、玉川上水に入水。19日に遺体が発見された。昭和24(1949)年6月の一周忌に太宰の墓が、森鷗外の墓の斜め前に建てられた。昭和19(1944)年に発表された「花吹雪」に「この寺の裏には、森鷗外の墓がある。(中略)ここの墓地は清廉で、鴎外の文章の片影がある。私の汚い骨も、こんな小綺麗な墓地の片隅に埋められたら、死後の救いがあるかもしれない」という一文があり、その意が汲まれたもの。墓碑には、太宰自筆の文字が拡大して刻まれてる。なお、平成10年、隣に美知子夫人が葬られた津島家の墓が建立された。死の直前に発表された「桜桃」に因み、毎年6月19日に太宰を偲ぶ桜桃忌が催される。
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森鴎外(森林太郎)の墓
東京都 新宿・中野・杉並・吉祥寺
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森鷗外は、文久2(1862)年、島根県鹿足郡津和野町(現・津和野市)の生まれ。本名を林太郎という。森家は代々津和野藩主亀井家の典医。東大医学部を卒業後、軍医としてヨーロッパに留学し、陸軍医務局長や陸軍軍医総監の地位に進む。その一方、文学にはげみ、明治文壇の重鎮として大きな業績を残していく。主な作品には、「舞姫」「うたかたの記」「雁」や歴史小説「阿部一族」「山椒大夫」などのほか「即興詩人」等の翻訳や評論活動でも知られている。大正11年(1922)、61歳で病没。墨田区向島の弘福寺に埋葬されたが、関東大震災で寺が全焼し、また隅田公園の拡幅工事範囲に墓地が入ったため、昭和2(1927)年に同じ宗派であった禅林寺に森家の墓地が移された。墓碑には、遺言によって一切の栄誉・称号を排して、「森林太郎墓」 とのみ刻されている(墓碑は、中村不折の書)。このことは、境内にある遺言碑に記されている。 毎年7月9日に鷗外忌が催されている。なお、鷗外の墓に並んで演劇評論家として歌舞伎の革新等にも功績をあげた弟篤次郎(筆名・三木竹二)の墓がある。
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三木露風の墓
東京都 新宿・中野・杉並・吉祥寺
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詩人・三木露風は、昭和3(1928)年に牟礼の地に移り住んだ。転居当時は桑畑や雑木林が広がる閑静な地であった。ここに建てた家は「遠霞荘」(えんかそう)と名付けられた。この家は老朽化したために建替られているが、庭に残る樹木の一部は今も当時の面影を残している。晩年、三鷹の地でひそかに詩を書きつづけた露風は、三鷹市制5周年をたたえ、昭和31(1956)年元旦に「新年の詩」を贈り、また、昭和39(1964)年には高山小学校校歌を作詞している。作曲は露風自らの考えで近衛秀麿に依頼し、同氏の指揮により披露された。墓所は、牟礼にある大盛寺墓地内にある。また、平成21(2009)年、三鷹台団地に「あかとんぼ児童遊園」が作られた。入り口には赤とんぼの歌碑が置かれている。
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柴田勝重の墓
東京都 新宿・中野・杉並・吉祥寺
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織田信長の死後、柴田勝家が豊臣秀吉に滅ぼされた後、孫の勝重は成人すると徳川家康に仕えた。そして、上仙川・中仙川の地を与えられた。今の新川団地の場所に勝重の陣屋があったと、『新編武蔵風土記稿』などに記される。この地は島屋敷遺跡と呼ばれ、団地の建替工事に伴い発掘調査が行われた。80年ほどで柴田家の仙川の知行は終わり、以後は幕府の直轄地となった。勝重は、寛永9(1632)年、52歳で病死。春清寺墓地には宝篋印塔型の雄大な墓がある。法名は「揚源院殿雄山浄英居士」である。また、十世勝房が寛政8(1796)年に建立した柴田家の由緒を記した碑もある。なお、新川の勝淵神社境内には勝重が勝家の兜を埋納したという塚がある。
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三鷹事件遭難者慰霊碑
東京都 新宿・中野・杉並・吉祥寺
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禅林寺墓地の奥の方にある、高さ210cmの平板形の碑。昭和24(1949)年7月、三鷹駅構内で起こった無人電車暴走事件の遭難者6人の慰霊碑である。昭和30(1955)年9月25日に有志、篤志家によって建立されたものである。
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八幡大神社「すだじぃ」
東京都 新宿・中野・杉並・吉祥寺
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八幡大神社社殿の左側に御神木がある。目通り幹周り3.62m 、樹高17m で三鷹市内の社寺にあるシイでは最大のものであり、市の文化財(天然記念物)に指定されている。このシイ(ぶな科)はスダジイという名をもつ。暖地の山野に自生する常緑高木である。したがって人手の加えられなかった昔は、スダジイやシラカシを主体とした照葉樹林に覆われていたものと思われるが、この木は独立樹のため栽植されたものかもしれない。樹勢も盛んな大木で禅林寺の「いちょう」とともに、三鷹市には数少ない天然記念物として大変貴重である。さらに、この境内にはシラカシ、ケヤキの大木、サクラの老木の並木、社殿裏手にはクヌギ林などが保護されており、三鷹市の昔の面影を考える上でも貴重な森である。
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御鷹場の碑
東京都 新宿・中野・杉並・吉祥寺
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鷹をつかって野鳥や兎などの小動物を捕えるのが鷹狩であり、武将などが行ってきた狩猟である。徳川家康をはじめ代々の将軍は、江戸付近の各地で鷹狩をしており、井の頭周辺にもたびたび来ている。幕府は鷹場村々を定め、江戸城を中心に五里(20km)以内の村々を、すべて幕府の鷹場とし、外側の村々を尾張・紀伊・水戸の徳川家などの鷹場とした。三鷹の地はその境界であった。すなわち、上連雀・野崎・大沢から東は幕府の鷹場であり、そこより西の井口・野崎・深大寺・大沢の各新田及び多摩地区から埼玉県南部にまたがる広大な地域が尾張徳川家の鷹場であった。村々には境界を示す石碑が、明和7(1770)年ごろに建てられた。全83本のうち三鷹市内には、7本建てられたという記録がある。そのうち、5本が現存する。市役所庁舎裏の雑木林の中に1本、野崎地区の吉野泰順氏邸内に1本。長久寺境内に1本、そして井口の大鷲神社の祠に1本(2つの部分)である。いずれの石碑も高さ1mほどの角柱型で、方位等が記されているが、書体は異なる。このほか大沢二丁目の地内で発見された1本がある。上部が欠損し、領域を記した方位文字がなく、惜しまれる。
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