岩手県の観光名所 スポット 20選
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花巻広域公園
岩手県 花巻・北上・遠野
- 観光名所
岩手県花巻市に位置する「花巻広域公園」は、自然を満喫しながらリフレッシュするのに最適なスポットです。大人から子供まで楽しむことができる施設が多数揃っており、活気満点の運動広場やテニスコート、ゴルフ場など、さまざまなレクリエーションを提供しています。児童の遠足などにも利用され、家族みんなで訪れるのにうってつけの公園です。 大きな特徴として、敷地内にある「金矢温泉」が挙げられます。日帰り入浴や宿泊が可能なこの温泉は、運動を楽しんだ後のリラクゼーションに最適です。 また、花巻広域公園は、岩手県花巻市の観光資源としても注目されています。地元の自然を存分に満喫でき、身近なレクリエーションへのアクセスが容易なことから、地元住民だけでなく、観光客からも愛されています。
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オガール紫波
岩手県 花巻・北上・遠野
- 観光名所
岩手県紫波郡にある複合商業施設。8種の飲食店や7つの販売店があるほか、クリニックや体育館、ホテルや図書館、サッカー場やスポーツジムなど、様々な施設が並ぶ。中央にある芝生の広場は、一つのまちのようにたくさんの交流が生まれている。ホテルには敷地内を見渡せるテラスがついた特別室が設けられているほか、ビジネスや観光、合宿など多目的に利用できる。
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カッパ淵
岩手県 花巻・北上・遠野
- 観光名所
常堅寺の裏手に流れる川で、かつては河童が住んでいたといわれている。川のそばには、乳神様というカッパを祀った小さな祠があり、母乳が出るように想いを込めながら乳をかたどった赤い布を納めると、願い事が叶うという言い伝えがある。全国的にも珍しいカッパ釣り体験ができる場所としても有名。カッパ釣り体験をするには、売店で販売しているカッパ捕獲許可証の購入が必須となっている。あたりは茂みに覆われ、今にもカッパが現れそうな雰囲気が印象的だ。
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奇跡の一本松
岩手県 三陸海岸
- 観光名所
高田松原津波復興祈念公園内にある松の木。かつては陸中海岸を代表する海水浴場だった場所には、樹齢300年を越えるアカマツやクロマツの林が約2kmにわたって植樹されていた。その数は約7万本。東日本大震災によって跡形もなく流され、今は1本だけ残った奇跡の松がモニュメントとして保存されている。園内には一本松のほか、来訪者が花を手向ける「献花の場」や、海を見渡せる「海を望む場」がある。
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栗山大膳の墓
岩手県 盛岡
- 観光名所
筑前福岡藩主筆頭家老。黒田騒動の後、1663年南部藩にお預けとなった。この恩流寺は、大膳については黒田騒動の史実では有名ではあるが、京極丹波守、下田将監などの墓碑もあるが、なぜそれらが南部藩内にあるかは全く知られていない。また大膳の碑文は、南部藩お預けの身となっていた無方規伯が記したもので、栗山大膳の忠節を讃えたものである。
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南部利直の墓
岩手県 盛岡
- 観光名所
信直の嫡子。豊臣氏滅亡後の混乱のなかで南部氏所領を守り,城下町盛岡の街作りを推進。南部家と東禅寺との関係は十三代守行公より始まり、二十七代利直公の焼香師と勤めた。利直公のほか、三十一代信恩公、三十五代利正公、三十七代利用公、三十九代利義公ほか一族の墓が多数ある。
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新渡戸稲造記念碑
岩手県 盛岡
- 観光名所
新渡戸稲造(にとべいなぞう)は、1862(文久2)年、盛岡市に生まれました。札幌農学校に進学し、そこで生涯を通じた合理主義・自由主義・国際人としての基礎を培いました。卒業後はアメリカ、ドイツへ留学して農学・経済学などを学んだあと、国際的な教育者として多くの人材を育てました。また、「武士道」に代表されるような著作活動によって日本文化の海外紹介につとめました。当時立ち遅れていた女子教育にも取り組み、東京女子大学初代学長となり設立に尽力しました。国際連盟事務次長をはじめとする要職につき、国際平和に貢献、カナダのビクトリア市で亡くなりました。現在、盛岡市とビクトリア市は新渡戸を縁として姉妹都市となっています。ビクトリア市の太平洋を望む丘には、盛岡の盛岡城跡公園にある記念碑と同じものがたてられています。岩手公園にあるこの碑に刻まれる、西洋の文明を日本へ、日本の文化を西洋へとの彼の願いを象徴した、「われ太平洋の架け橋とならん」という言葉は、あまりにも有名です。新渡戸こそ、日本を代表する初の国際人といってもよいでしょう。
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米内光政の墓
岩手県 盛岡
- 観光名所
米内光政(よないみつまさ)は盛岡出身の海軍大臣・首相です。盛岡中学卒業後、海軍兵学校、海軍大学校へと進みました。連合艦隊指令長官などを経て、太平洋戦争を前にした昭和12年から海軍大臣、同15年から半年間総理大臣を歴任し、この間日独伊三国同盟締結に一貫して反対し続けます。同19年に海軍大臣に復帰して太平洋戦争を終結に導きました。沈着にして的確な判断力と一方に偏らないその姿勢は、閣内で重きをなし、「良識の提督」として多くの信望を集めました。光政の生涯は一貫して天皇の海軍を預かる天皇の軍人といってもいいほどでした。相沢中佐事件、2・26事件などで、若手将校を微動だにさせなかったのは、彼の人徳と実力を現しています。彼は日本海軍を侵攻用と考えず、防衛用と考えました。戦前・戦後を通じ政治に関与しながらも、軍人としての名声を保持している数少ない人物であり、能筆でも知られています。
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愛染明王像
岩手県 盛岡
- 観光名所
寄木造りの木彫りの像。彩色されていたが、脱色し全体に黒っぽくなり歴史の年輪を感じる。昭和41年に盛岡市指定文化財になっており、現在はもりおか歴史文化館に収蔵されている。
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楢山佐渡の墓
岩手県 盛岡
- 観光名所
楢山佐渡(ならやまさど)(本名隆至(たかし)、もしくは隆吉)は楢山帯刀(たてわき)(隆冀(たかくに))の長男として生まれた。楢山家は南部一門として代々家老を勤めた家柄で、佐渡も弱冠23歳にして家老職に就き、後には主席家老として藩政の改革に奔走した。佐渡は疲弊した藩財政と相次ぐ一揆をおさめるために働き、そんな佐渡を藩主利剛(としひさ)も厚く信頼した。 1868(慶応4)年2月、旧幕府側と薩長側に揺れる藩の行く末を決めるべく、佐渡は主席家老として京都へ赴く。しかしそこで佐渡が見たものは、権勢を得て横暴な態度をとる薩長の武士の姿だった。そのため佐渡は、薩長の標的とされた会津藩と庄内藩への穏便な処置を望んだ奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)への参加を決意する。 奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)に従った盛岡藩は、同盟を脱退した秋田藩を攻めるも官軍の援助を得た秋田勢に敗れ、同年9月に降伏謝罪の手続をする。主席家老として佐渡はその戦争の責任を一身に受ける形となり、翌年の1869(明治2)年6月23日、故郷盛岡にて切腹の形をもって処刑された。
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ムカデ姫の墓
岩手県 盛岡
- 観光名所
高さ3mほどの石の塔。昔、於武(おたけ)の方は、先祖がむかで退治に使った矢の根を持って、 南部家27代利直公に嫁いできました。 於武の方が亡くなったとき、遺体の下の変色した形が、むかでのはいまわる姿に似ていたことから、 「於武の方が持ってきた、むかでを退治した矢の根石の怨念にちがいない」と人々は驚き恐れました。この奇怪な出来事に利直公は、むかでは水を嫌うことから、堀をめぐらした土手の上に、 石垣でかこまれた墓の建立を命じました。ところが、堀にかこまれた墓地に見事な橋が架けられ、 殿様の渡り初めを待つ夜に、不思議なことに一夜のうちにその橋が壊され、大騒ぎとなりました。 その後、何度橋を架けても、むかでが出て壊してしまいました。 於武の方の墓には、大小のむかでが無数に出て、於武の方の髪の毛が片目の蛇となって石垣の間からはいまわり、 墓守は石の間に鉛を流し込んで防いだともいわれています。人々は、これらの出来事は矢の根石にまつわるむかでの怨霊のせいだと噂し、いつしか於武の方をむかで姫、 墓地を「むかで姫の墓」と呼ぶようになりました。
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石造地蔵菩薩坐像
岩手県 盛岡
- 観光名所
愛称四ツ谷地蔵。盛岡藩南部家当主第三十代行信公が300年余前(1694)に建立した。安産、家内繁栄のお地蔵さんとして参詣者が絶えない。
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石造十六羅漢付五智如来
岩手県 盛岡
- 観光名所
江戸時代の盛岡藩の4大飢饉といわれる元禄・宝暦・天明・天保の大凶作によって、領内には多くの餓死者が出た。祇陀寺14世天然和尚は、その悲惨な餓死者を供養するために、十六羅漢・五智如来の合計21体の石仏建立を発願した。そして領内から浄財の喜捨を募って、天保8年(1837)工事に着手した。下絵は藩の御絵師狩野林泉が描き、石材は市内の飯岡山から切り出し、藩の御用職人の石工7人が3年かかって荒刻みを行い、北上川で舟を渡して、建設場所の祇陀寺末寺の宗龍寺境内に運びいれ、最後の仕上げをしたものだという。しかし、宗龍寺は明治維新後に廃寺となり、明治17年(1884年)に盛岡の大火で寺院も焼失したので、現在21体の石仏群を残すのみである。
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宮沢賢治詩碑
岩手県 盛岡
- 観光名所
盛岡で中学・高等農林時代の青春期を過ごした詩人童話作家。賢治の死の一カ月前にあたる8月22日の日付のある文語詩百編の中の一つ。※「かなた」と老いしタピングは 杖をはるかにゆびさせど 東はるかに散乱の さびしき銀は声もなし なみなす丘はぼうぼうと 青きりんごの色に暮れ 大学生のタピングは 口笛軽く吹きにけり 老いたるミセスタピング 「去年(こぞ)なが姉はこゝにして 中学生の一組に 花のことばを教へしか」 弧光燈(アークライト)にめくるめき 羽虫の群のあつまりつ 川と銀行木のみどり まちはしづかにたそがるゝ
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立原道造詩碑
岩手県 盛岡
- 観光名所
昭和初期の詩壇にすい星のように登場し、 24歳で帰らぬ人となった四季派の叙情詩人・立原道造(たちはらみちぞう)。彼は昭和13年9月から10月まで盛岡の深沢紅子 (ふかざわこうこ)氏生家の別荘に滞在した。その間盛岡での叙景や心情を綴ったのが「盛岡ノート」。 光あれと ねがふとき 光はここにあった!・・・ で始まる「アダジオ」もこの作品の中の一つで、愛宕山中腹の松林の中に碑が立っている。付近は立原が滞在の折に散策した、なだらかで美しい丘陵です。 死の前年の秋,盛岡に約1カ月逗留。盛岡での叙景や日々の心事をつづった「盛岡ノート」の中の一編である。
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啄木望郷の丘
岩手県 盛岡
- 観光名所
市内が一望できる岩山山頂にあり,昭和57年,照井栄氏によって作られた「啄木望郷の像」があります。高さ345メートルの岩山山頂近くが公園として整備され、「啄木望郷の丘」として親しまれています。「啄木望郷の像」はふるさとの姫神の山にむかい、啄木がもっとも愛した「岩手山 秋はふもとの三方の 野に満つる蟲を何と聴くらむ」の望郷歌が刻まれています。そばには全国的にも例をみない詩人夫妻の”夫婦歌碑”が建てられ、啄木の「汽車の窓はるかに北に故郷の山見えくれば襟を正すも」と妻節子の「光淡くこほろぎ啼きし夕より秋の入り来とこの胸抱きぬ」の二首が刻まれています。志半ばにしてわずか20代の若さで貧しさのうちに病に冒され、相次いで世を去った二人は、今は歌となってふるさとの山河を見つめています。この公園の上にある岩山展望台からは、北上川・中津川・雫石川が流れ遠くに岩手山や姫神の美しい峰を望む「杜と水の都」盛岡を360度のパノラマで見下ろすことができます。
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報恩寺五百羅漢
岩手県 盛岡
- 観光名所
報恩寺(ほうおんじ)は広大な座禅堂と五百羅漢(ごひゃくらかん)で藩政時代から有名です。 石川啄木がまだ盛岡中学の学生だったころ、この北山一帯の風光をこよなく愛し、級友とよく散策したといわれます。詩集「あこがれ」の中の「落瓦の賦」は報恩寺をうたったものです。また、 宮沢賢治は 盛岡高等農林学校時代に報恩寺で参禅したりしています。五百羅漢は報恩寺の羅漢堂に納められた尊像で、499体が現存しています。これらの像は、胎内の墨書銘から、1731年(享保16)、報恩寺代17世和尚が、大願主として造立、4年後に完成したことが分かっています。尊像は京都で9人の仏師によって製作され、盛岡に運んだ輸送用の箱は台座として再利用されました。五百羅漢の五百という数字は、多数という意味で、それぞれの尊者に名はなく、服装からは印度・西域・支那の僧の風貌・容姿が連想され、マルコ・ポーロやフビライ・ハンの像といわれるようになった像もあります。五百羅漢の現存は全国で50例ほど確認されていますが、木彫りで499体が現存し、造立年代、尊像の製作者まで明確に知り得るのは、全国的にもまれな例といえます。
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原敬生家
岩手県 盛岡
- 観光名所
原敬の祖父直記が嘉永3年(1850)に建てたもので、屋敷の5分の4は原敬東京遊学の際売却して学費に充て5分の1が現存するが,今も武家屋敷の面影を残している。昭和52年12月20日に盛岡市歴史的保存建造物に指定された。
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銭掛の松
岩手県 盛岡
- 観光名所
昔、現在の名須川町のある徳玄寺にみすぼらしい老人が現れ頭だけの如来像を銭三貫文で売っていった。しかしそのお金は翌日外の松の木にそっくり残されていた。後日和尚は頭を背負って胴体を探しにいった。ある店先で胴体のみの仏像をみつけ首をあわせてみるとピッタリとくっつき離れなくなった。和尚は不思議な因縁と思いその胴体を買い取って本堂に祀ったという。それ以来人々は不思議な出来事として参拝に訪れ、銭がかけられていた松を「銭掛の松」と呼ぶようになった。
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宮野小提灯句碑
岩手県 盛岡
- 観光名所
宮野小提灯(みやのこちょうちん)は、戦時中も俳句の灯を絶やさず、 生涯を庶民の俳人として貫き通しました。 ※月待つや独り古城の松のもと
岩手県の観光名所探し
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