倉敷・総社・井笠の史跡 スポット 20選
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鬼ノ城
岡山県 倉敷・総社・井笠
- 史跡
標高400m〜600mの吉備高原の南縁に位置し、眼下には古代吉備の中枢地である総社平野を臨むことができる。快晴時には、瀬戸内から遠く四国の山並みも望見される眺望絶景の地。鬼ノ城は古代山城で、その規模と構造が最もよくわかっている城といわれている。吉備津彦命の温羅退治の伝説でも有名。ハイキングコースとしても脚光をあびている。
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安養寺裏山経塚群
岡山県 倉敷・総社・井笠
- 史跡
安養寺は倉敷市の北部に位置する真言宗の古刹です。この経塚群は,寺の背後の山腹に存在し,第1から第3経塚まであります。経塚とは平安時代の末法思想の影響により,土中に経文の刻まれた瓦を埋めて後世に遺すという善行で極楽往生しようという願いから設置されたものです。 第一経塚からは国の重要文化財に指定されている経瓦、土製塔婆型法華経題箋、土製宝塔が出土している。 第二経塚からは、瓦製経筒、誕生仏。第三経塚からは塔婆形経瓦などが見つかっている。
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真備美しい森
岡山県 倉敷・総社・井笠
- 史跡
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箭田大塚古墳
岡山県 倉敷・総社・井笠
- 史跡
県下三大巨石古墳のひとつ。 明治34年の調査で、須恵器や土師器などとともに権力の強大さを示す刀剣、馬具、金環、勾玉などが発見されました。6世紀後半の築造と考えられています。
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鴨山城址
岡山県 倉敷・総社・井笠
- 史跡
室町時代備中分郡守護細川通薫の居城。
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安倍晴明遺跡
岡山県 倉敷・総社・井笠
- 史跡
天文学の始祖、阿部山頂で観測した跡に建碑されている。
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角力取山古墳
岡山県 倉敷・総社・井笠
- 史跡
一辺36m×38m、高さ約5mの方墳で、吉備地方では最大規模。5世紀後半に地域の首長墓として造られた。古墳の西側で奉納相撲が行われていたことから「角力取山古墳」と名付けられた。古墳上の大松は、樹齢約450年。風雪に耐え、歴史の重みをみせる樹形の美しいクロマツである。
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福山城跡
岡山県 倉敷・総社・井笠
- 史跡
福山の地に、新田義貞の部将・大井田氏経がわずか1500騎で、都を目指して東上する足利直義の大軍と3日間にわたって激戦を繰り広げた。
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岩屋
岡山県 倉敷・総社・井笠
- 史跡
鬼ノ城から峰続きで約3キロのところにある山上の集落に、岩屋寺というお寺がある。その背後にある、花崗岩の大きな洞窟が「鬼の岩屋」である。吉備津彦命の温羅退治の伝説に出てくる温羅という鬼のすみかといわれる。この巨岩には手形のようなくぼみがあり、「鬼の差上岩」の別名もある。
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備中国分尼寺跡
岡山県 倉敷・総社・井笠
- 史跡
国分寺の東方、アカマツ林の中に円形の造り出しのある立派な礎石群が昔日のまま残っている。伽藍は、南大門、中門、金堂、講堂が一直線に配置され、都の寺院に匹敵する規模を誇り、天平時代の壮大さを感じさせる。
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浅尾陣屋跡
岡山県 倉敷・総社・井笠
- 史跡
文久3年(1863年)に1万石に加増され、旗本から大名となって陣屋を新たに浅尾に築いて、慶応2年(1866年)の倉敷浅尾騒動により焼失。復興を待たずして明治となる。今では松や雑木につつまれた低い山の陵線に、わずかに土塁を残しているのみである。
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作山古墳
岡山県 倉敷・総社・井笠
- 史跡
備中国分寺から西約1キロにある小高い丘、これが巨大な前方後円墳。全国第10位の規模で、まさしく作り山。古代吉備の勢力の強大さを物語っている。
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こうもり塚古墳
岡山県 倉敷・総社・井笠
- 史跡
国分寺と国分尼寺跡の中間にある小さな丘がこうもり塚古墳(前方後円墳)。巨大な石を使った横穴式石室は全国最大規模で、石室内には浪形石製の家形石棺が納められている。仁徳天皇との恋物語で有名な黒媛の墓であるとの言い伝えがあった。
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高越城址
岡山県 倉敷・総社・井笠
- 史跡
中世の要城で、戦国初期の英雄、伊勢新九郎盛時(のちの北条早雲)が生まれ青年期を過ごした。
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津雲貝塚
岡山県 倉敷・総社・井笠
- 史跡
縄文後期の代表的貝塚。大正年間の発掘調査で縄文時代の人骨が多数出土したことで知られ、日本史の教科書にも登場する有名な遺跡。縄文土器、石器なども多数出土した。出土品の一部は、笠岡市立郷土館に展示されている。
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楯築遺跡
岡山県 倉敷・総社・井笠
- 史跡
吉備津彦命が温羅との戦いに備えて石楯を築き、防戦準備をしたと言われる神社の跡。神域に松の大樹が茂り、その下に奇岩怪石が散在する。
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源平合戦藤戸古戦場跡
岡山県 倉敷・総社・井笠
- 史跡
昔、倉敷市藤戸周辺は小さな島が点在する海でした。 800年ほど前、この藤戸の地で「源平合戦」として知られている源氏と平家の戦いがありました。 治承4年(1180年に始まり、全国的に展開された源・平両氏による戦乱は、建久元年(1190年)奥州藤原氏の滅亡まで、10年間にわたりました。 歴史的には日本が、古代から中世に脱皮するためのこの動乱中、倉敷市内で2度の合戦が行われました。 寿永2年(1183年)10月には玉島でと想定されている水島合戦があり、翌年(1184年12月、藤戸の合戦がありました。 藤戸にはその頃から、江戸・明治にかけて、多くの史跡が現在も多く残っています。
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下津井城跡
岡山県 倉敷・総社・井笠
- 史跡
備讃瀬戸の海を臨む下津井は古来,瀬戸内の軍事,海運の要衝でした。この地の政治的重要性から,地元の人達が城山と呼ぶ標高89mの丘陵には,16世紀に既に宇喜多氏の城砦が築かれていたとされています。 慶長8年(1603)岡山藩家老池田長政が下津井城主となり近世城郭の形態を整備しました。本丸を中心として両側に二の丸・三の丸を備え,さらにその先に西出丸・東出丸を配するという構造になっています。 寛永16年(1639),一国一城の幕令により廃城となってからは,かつての姿を伝えるのは荒廃した石垣だけになっていました。そのためこの地を訪れる人も少なかったのですが,近年,史跡内の散策路が整備されたことにより,地域の歴史に触れながら美しい瀬戸内の風景も楽しめる新しい学習の場となっています。
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一の口水門
岡山県 倉敷・総社・井笠
- 史跡
西高梁川からの灌漑用水路を拡張・整備し、高瀬舟の運行を可能にしたのが高瀬通しです。完成した年代のことは、正確な記録がありませんが、寛文4年 (1664)頃であろうとされます。一の口水門とその下流約350mの二の水門、通称船溜水門との間で水位の調整を行い、高梁川流路との高瀬舟の出入りを容易にしたものです。 一の口水門から、水江又串、元組、長崎鼻・長尾・爪崎南端を経て七島東端、さらに羽黒山麓へと連なるもので、これによって短い時間と距離で松山藩の外港・玉島港への舟運が開かれました。水門の構造は一の口と二の水門の一部で創設時の状態をとどめています。 以上のように、一の口水門はその遺構が良好に残されており、17世紀の後半から20世紀の初めまでの長期間にわたって続いた高瀬舟による物資輸送のことを今に伝える重要な遺跡です。
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石造毘沙門天立像
岡山県 倉敷・総社・井笠
- 史跡
真備町尾崎の石田山の東端頂の巨石に浮彫りされた像高1.8mの磨崖仏で、作者、製作年代は不明ですが、室町末期の作といわれています。毘沙門天は四天王の一つで、北方を守る武神として広く信仰されています。 この峰は石槌山とも呼ばれており、大晦日には地元の人々が山頂に登って火を焚き、初日の出を迎える信仰が現在でも残っています。
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