八代・水俣・湯の児の文化史跡・遺跡 スポット 20選
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鏡が池
熊本県 八代・水俣・湯の児
- 史跡
古い日本語によるとカガとは芝原(荒地)、ミは水または泉のことで、鏡町の地名の由来といわれている。当時の池は、周囲が一里半(6km)もあったといわれ、現在は鏡が池公園として整備されている。 その昔、蘇我石川宿袮が当地を訪れた際、若者達が鏡が池に裸で氷を割って飛び込みフナを手取りにしてさし出したという故事にならい4月7日フナ取り神事が行われている。
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津奈木太郎(三太郎峠)
熊本県 八代・水俣・湯の児
- 旧街道
佐敷太郎峠赤松太郎峠を含めて三太郎峠といわれ、当時は難所を極め現在はトンネル(津奈木随道)が通じている。この津奈木随道は、平成14年9月に文化庁指定の登録有形文化財となった。
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佐敷城跡
熊本県 八代・水俣・湯の児
- 史跡
加藤清正が肥薩国境の拠点として築城。江戸時代初期の築城技術と一国一城令による破壊の痕跡が確認された。出土遺物の「天下泰平」銘鬼瓦と桐紋鬼瓦は県重要文化財に指定されている。平成20年3月には国の史跡に指定されている。
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宮浦古墳
熊本県 八代・水俣・湯の児
- 史跡
宮浦阿蘇神社の境内一帯には、古代に南九州を席捲した隼人族の古墳が地下に埋っています。正式名称は、宮浦地下式板石積室古墳群といい、薄い板状の石をドーム型に組んでおり、川内川流域や球磨地方にも見られる隼人族独特の古墳です。
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旧佐敷太郎
熊本県 八代・水俣・湯の児
- 旧街道
赤松太郎峠、津奈木太郎峠を含めて、三太郎峠といわれ、薩摩街道最大の難所として知られ、明治10年の西南戦争の時には、西郷軍も行軍に難渋したことが、日記等に記されている。明治38年にレンガ積みのトンネルが造られ、国道として整備されたが、自動車量の増加に伴い、昭和40年に新しい佐敷トンネルが造られて、その役割を終えた。
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大野窟古墳
熊本県 八代・水俣・湯の児
- 史跡
前方後円墳、横穴式。平成25年10月に国指定史跡に指定。
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物見櫓古墳
熊本県 八代・水俣・湯の児
- 史跡
前方後円墳,原形をとどめ県の史跡に指定されている。垂飾付耳飾が出土された。
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中の城古墳
熊本県 八代・水俣・湯の児
- 史跡
人物埴輪を出土した。前方後円墳。
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姫の城古墳
熊本県 八代・水俣・湯の児
- 史跡
前方後円墳。原形をとどめ県の史跡に指定されている。
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端の城古墳
熊本県 八代・水俣・湯の児
- 史跡
公園化された前方後円墳。県史跡。
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水島
熊本県 八代・水俣・湯の児
- 史跡
水島は、球磨川河口の堤防から50mほど離れた所にある小さな島で、日本書紀の景行天皇18年4月の条に、「天皇がこの島で食事をなさろうとした際、水が無かったので、小左(おひだり)という人物が天地の神々に祈ったところ冷水が湧きだしたので、それを天皇に差し上げることができた。そのためこの島を水島と呼ぶ」と記されている。 万葉集では長田王により「聞きし如まこと貴く奇しくも神さび居るかこれの水島(人の言うように、貴く不思議にも神々しく見えることよこの島は)」と歌われている。 「不知火」とともに、八代海(不知火海)における天皇巡幸故事にまつわる景勝地として国名勝に指定されている。
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大鞘樋門群
熊本県 八代・水俣・湯の児
- 史跡
文政2年(1819)9月に完成した四百町新地開における干拓樋門。当初は五つの樋門があったが、現在は「殻樋」「二番樋」「江中樋」の三つのみ残る。大鞘樋門の名称は、樋門の周りを囲む鞘石(石垣)が非常に堅固だったことから名付けられたと伝えられており、その周辺もまた大鞘と呼ばれるようになった。現存する県内最古の樋門で熊本県指定史跡。 新地干拓の潟担い労働唄として「名所名所と大鞘が名所、大鞘名所にゃ水がない」という唄がうたわれ出し、郷土民謡大鞘名所(大鞘節とも)が生まれた。
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今泉製鉄跡
熊本県 八代・水俣・湯の児
- 史跡
今泉製鉄跡は、江戸時代末期の嘉永2年(1849)に操業を始めた八代城の御用製鉄所跡。昭和53年の発掘調査によって、地中には溶鉱炉の下部構造(本床や小舟)が良好な状態で残っていることが確認された。 ここではたたら製鉄が行われ、製鉄に関わる職人は石見国から来た人が多く、生産された鉄は刀剣や鉄砲の制作に使用されたり、八代城下の商人を通じて長崎方面へ出荷された。 明治10年(1877)頃閉鎖され、その生産規模や運営形態など不明な部分は多いものの、球磨川の水運と豊富な木材資源を利用した産業遺跡として貴重。熊本県指定史跡。
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水俣城跡
熊本県 八代・水俣・湯の児
- 史跡
築城年代不明。一国一城が発令される3年前に破却された。城郭の規模や構造に関する史料は乏しかったが、平成21年度から保存整備を検討するための確認調査に着手、新たな石垣の発見や、「慶長12年」銘入り軒平瓦片の出土などがあっている。
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南福寺貝塚
熊本県 八代・水俣・湯の児
- 史跡
昭和3年斎藤俊三氏によって発見された。貝層から土器片や獣骨、人骨、骨製の装身具などが出土している。南福寺式土器の標式遺跡である。
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千人塚と仏石
熊本県 八代・水俣・湯の児
- 史跡
関ケ原ノ合戦の時、西軍に加わった島津軍と、東軍についた水俣軍との交戦で戦死した将兵を祀るために建立したのが千人塚。仏石はこの戦いで討ち死にした深水頼道の霊を弔うため、水俣最後の代官である深水頼寛が建てたもの。
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時堂の板碑
熊本県 八代・水俣・湯の児
- 史跡
足利時代の末期、応仁の乱後の乱世を憂い、建立されたものといわれる。定蔵院朝全が比丘安修に造らせたもので、上部の円相内に地蔵尊の種子「カ」が刻まれ、その下に錫杖をかたげた地蔵尊が蓮華座上にたっている。
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官軍墓地
熊本県 八代・水俣・湯の児
- 史跡
明治10(1877)年の西南の役で戦死した官軍の軍人・軍夫らが埋葬されている。 ここには42基あるがそのほとんどが鹿児島県伊佐市で戦死した東京、名古屋、大阪の各鎮台及び近衛所属の将兵の墓碑である。 熊本県指定史跡
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石飛遺跡
熊本県 八代・水俣・湯の児
- 史跡
旧石器時代、縄文早期〜前期、中期にかけての遺物が出土。この高原上には、数箇所にわたって旧石器時代の遺跡が確認されており、旧石器時代研究の上で貴重な存在となっている。
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八代城跡
熊本県 八代・水俣・湯の児
- 史跡
元和8年(1622)に加藤忠広の命により加藤正方が球磨川河口に築城。3年前の同5年に地震で麦島城が倒壊したのを機会に新城建設を幕府に願い出て、麦島城の石を利用して築城した。一国一城令後に築城許可となった珍しい城。白鷺城・不夜城・松江城ともいう。現在は、天守台と石垣・堀の一部を残すだけで公園として開放されている。 明治3年(1870年)に廃城となり、同13年、本丸跡に八代町民の願いにより、南北朝時代の後醍醐天皇の皇子懐良親王顕彰を祭神とする八代宮が創建された。熊本県指定史跡。
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