関東の城郭 スポット 20選
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八王子城跡
東京都 八王子・立川・町田・府中・調布
- 城郭
八王子城跡は東京都八王子市に位置する関東屈指の山城。天正年間に築城が開始された歴史ある山城で、平成2年(1990年)の落城400年という節目に、御主殿地区の石垣と虎口などの通路、御主殿に続く古道が整備された。自然の眺めが魅力的で、秋には紅葉を、春には様々な種類の桜を見ることが出来る。戦国時代に使われていた武器なども出土しており、城跡ガイダンス施設で展示中。
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江戸城
東京都 銀座・日本橋・東京駅周辺
- 城郭
平安時代末期、江戸氏が居館を構えていたと見られ、そこに長禄元年(1457)、扇谷上杉氏の執事太田道潅によって築城された。道潅を暗殺した主君上杉定正は養子の朝良を城代とした。大永4年(1524)上杉氏を駆逐した北条氏綱は道潅の孫太田資高らに守らせたが、小田原合戦の後、徳川氏の本拠となって修築された。以後、将軍十五代、幕府政治の中枢として栄えた。その間数度の大火に見舞われながらも、明治維新を迎えて皇居に定められ、名を東京城とあらためた。現在は、櫓・城門など数棟の建物と内郭部の掘割・石垣などしか残っていない。◎太田道潅(1432-86)資清の子。幼名鶴千代麿、資長。扇谷上杉定正家宰。長禄元年江戸城築城。定正に相模国糟屋(神奈川県伊勢原市)で謀殺される。歌人。歌集は多く後世の偽書。
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前橋城址車橋門跡
群馬県 前橋・高崎・伊勢崎・太田・榛名
- 城郭
前橋城関連の城門として唯一残る門跡です。現在の車橋門跡は、区画の整理等のため、当時の石垣を利用し、幅を狭めて保存再築したものです。
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相模沼田城
神奈川県 湯河原・真鶴・小田原
- 城郭
箱根外輪山東麓に位地する独立した丘陵に築かれた城です。かつては城の周囲は、深い泥田や湿地帯に囲まれていました。この城は平安時代に波多野氏の一族である沼田氏よって築かれ、戦国時代には大森氏、北条氏の利用の形跡もうかがえます。歴史的には謎が多い城です。
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多古藩陣屋跡
千葉県 九十九里・銚子
- 城郭
現在は陣屋敷地の全域が小学校敷地になっており、陣屋時代を想像することはできない。元は陣屋下と呼ばれた現在の県道沿いに、表門、中門、裏門と門が並び、堀には朱塗りの橋が架かっていたという。この一部に石垣が残りわずかに面影を残している。天正18年(1590)徳川家の江戸入城と同時に保科氏の領地となり、やがて寛永12年(1635)松平家に替り、明治まで続いた一万二千石の行政の中心地である。
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松平家陣屋跡
千葉県 九十九里・銚子
- 城郭
初代は多古藩主松平家の兄で、関宿四万石の城主であった。数代後、種々の事業から六千石の旗本になった。そして天保13年(1842)因幡守康盛の代に、ここに陣屋を造った。その規模は、長屋門、家臣の住家、若御殿等であったが、明治元年(1868)になると全てが解体され、土地は農地となって、今では当時を偲ぶすべもない。
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玉造城跡
千葉県 九十九里・銚子
- 城郭
応安の頃、(1368〜1371)から野平伊賀守常信が守っていたと伝えられ、城の絵図も残っている。天正16年(1588)小田原城落城により、小田原方であった当時の城主野平常義は僧籍に入り、家族は帰農する。そして城は開放されて、円教山得成寺が創られたが、明治12年(1879)火災により失われ、再建されることはなかった。
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並木城跡
千葉県 九十九里・銚子
- 城郭
現在では城域を明確にすることはできない。この城の存在を証明する文書としては、建武3年(1336)千葉一族の争いで、千葉胤貞(千葉城主)軍が攻め寄せた状況を「金沢文庫文書」が記している。この他に康正元年(1455)、文明10年(1478)、明応2年(1493)、天正10年(1582)と幾度かの攻防があったとされているが、築城の時代や守将の名前も共に明らかにするものは発見されていない。
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坂田城跡
千葉県 九十九里・銚子
- 城郭
室町時代に千葉氏の一族によって築かれた中世の城跡です。いくつかの「くるわ」で構成され、400年以上壊されることなく当時の姿を残す県内でも貴重な城跡です。 遊歩道が整備されているため、森林浴やハイキングを楽しむことができます。
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小沢城跡
東京都 八王子・立川・町田・府中・調布
- 城郭
源頼朝の重臣として活躍した稲毛三郎重成の子、小沢小太郎の居城と言われており、川崎市との市境にあります。当時のなごりとして、空堀や古井戸などの跡が点在しています。
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久留里城
千葉県 木更津・君津・富津
- 城郭
久留里城は、房総半島の中・近世城郭の代表格として、また周囲に残る数々の遺構は貴重な資料として、往時の面影を今に伝えています。
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岩原城
神奈川県 湯河原・真鶴・小田原
- 城郭
戦国時代小田原北条氏の前に西相模地方を治めていた大森氏の城跡です。現在は城跡は殆ど宅地化されていますが、郭跡の一部に城主であった大森氏頼(寄栖庵)はじめ大森一族の供養塔が残されています。
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津久井城址
神奈川県 相模原
- 城郭
根小屋式山城の典型。城山と呼ばれ、付近に遺構が散在し、ハイキングコースとなっている。
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足柄城址
神奈川県 湯河原・真鶴・小田原
- 城郭
神奈川県と静岡県の県境に築かれた戦国時代の城郭で。小田原の北条氏の支城として、武田氏や今川氏との領地境を守りました。 豊臣秀吉の小田原攻めの時に徳川勢の井伊直政に攻められ落城しました。 五連郭といわれる構造で土塁や空堀が残ります。一の廓にある玉手ケ池は雨乞いの池として知られています。 毎年9月第2日曜日には「足柄峠笛まつり」の会場となり、南足柄市、小山町の小学生による領地争奪綱引き合戦はおおいに盛り上がります。 富士山の眺望も素晴らしいです。
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小机城址市民の森
神奈川県 横浜
- 城郭
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箕輪城散策コース
群馬県 前橋・高崎・伊勢崎・太田・榛名
- 城郭
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水戸城址(二の丸展示館)
茨城県 水戸・笠間
- 城郭
水戸城は、北が那珂川、南が千波湖に挟まれた、日本最大級の土造りの城です。城は大規模な土塁と深い堀によって堅固に守られていました。なお石垣構築の計画は何度かありましたが、諸事情により築かれることはありませんでした。 元は鎌倉時代に馬場氏の手により建てられた館に由来し、後に江戸氏そして佐竹氏の手を経て、慶長14年(1609年)、徳川頼房公が水戸に封じられるとともに水戸徳川家の居城となります。頼房公は三の丸や外堀の整備拡張を行い、二の丸に御殿を造営、併せて三階物見と呼ばれる櫓を建設しました。しかしこの三階物見は明和元年(1764年)の火災で焼失、後に再建された際に屋根を瓦葺とし、天守閣らしく鯱を上げ三階櫓(御三階櫓)と呼びました。 三階櫓は外観三層・内部五階の大型の櫓で、石垣がない代わりに一層目の下部を海鼠壁で覆い、あたかも石垣の上に建っているかのように見せていました。戦前は旧国宝に指定され、昭和20年(1945年)に戦災で焼失するまで水戸市のシンボルとして親しまれました。 今日も土塁や堀、弘道館や薬医門などが残り、かつての姿を偲ぶことができます。また徳川光圀公(水戸黄門)の大事業であった「大日本史」編纂事業が行われていた旧彰考館跡には、その記念碑とともに「二の丸展示館」が設置され、城址からの出土品や水戸城に関する資料などを公開しています。 現在は水戸城跡の整備計画が進んでおり、通り沿いの白壁塀や、那珂川方面からの登城口である「杉山御門」、南からの登城口の「柵町坂下御門」が再生整備されています。
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日本百名城佐倉城(佐倉城址公園)
千葉県 佐倉・八街
- 城郭
佐倉城は、関東における近世城郭の代表例として、曲輪の形状や水堀・空堀、土塁や天守台等の遺構が良好に残ります。特に国立歴史民俗博物館に隣接した、馬出し空堀は保存の状態が良いです。これらの理由により、日本百名城に千葉県で唯一選定されております。百名城のスタンプは、城の東端、自由広場内の佐倉城址公園センターに設置されています。 城内には、東京の乃木神社から移築された茶室や旧佐倉藩主堀田正睦の銅像、正岡子規の句碑、連隊の遺構、悲しい姥の伝説が残る姥が池など見所が沢山あります。
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国指定史跡「比企城館跡群 松山城跡」
埼玉県 飯能
- 城郭
松山城跡は、比企丘陵の先端に築かれた北武蔵地方屈指の平山城。平成20年に、国指定であった菅谷館跡(嵐山町)に、杉山城跡(嵐山町)、小倉城跡(ときがわ町・嵐山町・小川町)とともに加わり、比企城館跡群として国指定史跡となる。城の周囲は市野川が形成した低湿地帯が広がり天然の要害を形成している。現状の城の縄張りは、後北条氏による大改修によって形成されたものと思われ、本曲輪を初め多くの平場や空掘などが大変良好な状態で残っている。「鎌倉大草紙」には、応永23年の鎌倉六本松の合戦において「松山城主上田上野介討死」とあることから、応永年間(1394〜1428)には松山城は存在していたと推定される。しかしながら、この頃の文献資料は極めて乏しく詳細なことは不明である。歴史的には、室町幕府の要職にあった公方足利氏、扇谷・山内両上杉氏が衰退し、戦国大名の代表とされる後北条氏が興隆する時期からその名を中世史に登場させたと言える。 天文年間(1532〜1555)以降の文献資料は豊富で、その中には、扇谷・山内両上杉氏、後北条氏、甲斐の武田氏、越後上杉氏の名も見られる。特に、天文6年(1537年)に小田原の北条氏綱が江戸城・川越城を落とし松山城を攻めたことは有名である。その後も後北条・越後上杉などによる度重なる合戦によって支配者が頻繁に変わったが、後北条勢力下の上田氏の支配下にあることが多かった。松山城をめぐる攻防は大変激しく、ここが北武蔵地域の要所であったことが伺える。天正18年(1590)、豊臣秀吉による関東攻略の際、前田利家・上杉景勝などの軍勢が攻め落とし、小田原に本拠を構えた後北条氏は滅亡した。その後、徳川家康が関東に入り松平家広を松山城主としたが、弟の松平忠頼のときに浜松に移封され慶長6年(1601)に廃城となった。
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青山城跡
埼玉県 飯能
- 城郭
別名「割谷城」とも呼ばれる中世の山城跡です。戦国期には松山城の支城として、腰越城とともに上田氏の要害として機能していたものと思われます。
関東の城郭探し
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